TBSの「マツコの知らない世界」に出たいと思っています。
このことは、ごく親しい友人や仕事絡みの方には冗談めかして話していたことですが、それ以外ではほとんど口にしてきませんでした。もしかしたらアイドル第四会議室で一回くらい話したかもですがそのレベルです。
2年くらい前のことだったと思います。旧知の友人にこんな相談をしたことがありました。
「こんなに面白いアイドルシーンが広まらないのが悔しい。世の人に知ってもらうにはどうしたらいいか考えてるんだけど、自分が有名になる(影響力を持つ)ことが一番早いんじゃないかと思ってる」
するとその友人からすぐに「だったら「マツコの知らない世界」に出るのを目標にしろ」という答えが返ってきました。
かなり乱暴なやり取りですが10年来の友人で僕のやってることも重々承知している彼でしたので、僕が抱えた課題に対するシンプルかつ最短距離なアドバイスがそれだったんだと思います。
ただ、テレビ業界になんの繋がりもなく、その時点でテレビを見ることが日常のルーティーンから外れて20年以上が経っていた自分にとって、番組名自体は知っていても一度も見たことがない「マツコの知らない世界」への出演を目標するのは現実味が感じられない話でもありました。
しかもただのテレビ番組ではなく、相手はあのマツコ・デラックスさんです。彼女が幅広いジャンルに精通しているのは知っていますし、かつて「5時に夢中!」の中でたまたまローカルなアイドルの話題になった際に、軽率な発言をしてしまったMCのふかわりょうさんに「新潟にはNegiccoがいるだろうが!」と叱責していた光景は今でも覚えています。
そんなアイドルに対しても一家言あるマツコさんにどんな話ができるのか?そこまでアイドルのことを分かってる自分なのか?という気後れもありましたし、一度「『マツコの知らない世界』に出る!」と言った以上、中途半端にできない覚悟も求められることに正直ビビっていたところもありました。
ただ、それでもその友人のアドバイスが自分の中に腹落ちするところがあったのも事実で、それ以降のアイドル第四会議室ではより持論を語るようになりましたし、twitterのアカウント名に「【1年で200本のライブと500組のアイドルを見る人】」という肩書きを追加したのも、トークイベントに本腰を入れて人前で喋る機会を増やしていったのも、やたらと髪型をモヒカンにするようになったのもその後のことで、中途半端ながらに自分を売る、自分を前に立たせる試行錯誤を重ねていました。
それらのトライアンドエラーに多少なりとも手応えを感じたんでしょうか、それとも寄る年波とともに訪れる羞恥心の欠如のせいなのでしょうか。そのへんはよく分かりませんが、ここに至ってようやく「なんか今が言うタイミングなんじゃないか」「言った方が面白いんじゃないか」と思えるようになったのでこんな形で発表してみた次第です。
果たしてこの目標がいつ達成されるかは分かりませんが、いつしかやってきたその暁には、マツコさんにその時のアイドルシーンの魅力やその時に一番注目すべきアイドルについて大プレゼンをしてきたいと思っています。
みなさま応援よろしくお願いいたします。
ひでっきーなりのアイドルクロニクル
前回「「マツコの知らない世界」に出たい」という↑の文章をあげたところ思いがけないくらい色々なところから励ましや応援をいただきました。ありがとうございます。
また、その応援の中には番組出演に向けた具体的なアドバイスやタスクもいくつかあったので、着手できそうなものをこの記事に追加する形で随時アップデートしていきたいと思います。
そんなたくさんのアドバイスの中で僕が「確かに」と思ったものの一つに「番組にとって使いやすい(と思われる)ネタを持て」というものがありましたした。「番組に出ることを目標にするのではなく、番組にとってメリットのある人であれ」というアドバイスももらったのですが、それもほぼ同じ意味だと思います。
そのネタとして提案されたのが「アイドルシーンを俯瞰的に見える何か」、つまり僕がアイドルのことをよく分からない人にとって説明書的な解説ができる人であれば、それは番組としても使いやすい人であるはずだろう、という訳です。
では、アイドルシーンを俯瞰できる何かとはなんだろう?と思案していたら「例えばこういうことだよ」ともらった追加のアイデアが「アイドルシーンの系譜を語る年代記(クロニクル)的なもの」とのことでした。(一切自分で考えてなくてウケるw)
僕が最初にハマったアイドルは古くおニャン子クラブまで遡りますが、当時は僕も子どもだったのでさすがにその頃からは歴史を紐解くことは難しい。でも、ライフワーク的にアイドルを追いかけるようになった2010年前後〜「アイドル戦国時代」以降の年代記であればまとめられそうな気がしました。しかも、その15年余の歴史はそれまでのアイドルの意味や概念を覆し続け、拡大させ続ける歴史でもありましたし、2025年現在にもつながっている系譜だと思います。
仮に番組出演が叶わなかったとしても、現代アイドルの歴史に関するガイドラインの一つを例示することは一定の価値がある気がしたので、「言われたからやってみよ」的なノリで取り組んでみることにしました。
その年代記をまとめる目安として、まず初めに(僕が思う)アイドルの2010年以降の潮流を以下の5つのフェーズに分けてみました。「(僕が思う)」と前置きを入れたのは、僕自身が追いかけてきたのは「ライブアイドル」と呼ばれるライブをすることを活動の軸足に置いたアイドルが活躍するシーンだったため、その視点で見た歴史のフェーズ分けであることをあらかじめご理解ください。
- 第5期:コロナ明け「リセットからの再構築」(2022〜)
- 第4期:コロナ禍期「残酷すぎるサバイバル」(2020〜2022)
- 第3期:アイドル戦国時代の「絶頂と終焉」(2017〜2019)
- 【番外編】「地下アイドル」「ライブアイドル」ってなに?
- 第2期:ヒト・モノ・カネの大流入「アイドル戦国時代期」(2012〜2017)
- 第1期:ライブアイドル革命元年「BiSの登場」(2011)
- 第0期:革命前夜「AKB48&握手会商法の超成功」(2008〜2010)
はい。上記のように僕の歴史観でいうと2025年現在のアイドルシーンは「第5期(を経て第6期への移り変わり)」を迎えていると思います。お笑い業界的な言い回しにすると第5世代という感じでしょうか。そして、その少し前に革命の条件が色々と整っていく第0期があった、という認識です。この5つのフェーズ+1をこれから振り返っていくのでみなさんよろしくお願いいたします。
第0期:革命前夜「AKB48&握手会商法の超成功」
世界史でも日本史でもそうですが、ある革命的出来事が起こる少し前にそれが起こりやすくなる社会や環境の変化、機運の盛り上がり、というのがあると思っています。
今回まとめる2010年代以降の年代記、特にその前半に勃興する「アイドル戦国時代」にもその少し前にアイドルシーンの構造、しいては音楽エンタメの構造自体を大きく変える出来事がありました。それがAKB48と握手会商法の超成功です。
CDの特典として行われる握手会、そしてそれと一緒に付いてくる投票券が次のシングルのセンターとなるメンバーを決めるための選挙に使用され、その開票の様子は地上波のテレビで生中継されるほどの過熱ぶりを極めました。その過程であったアレコレについてはこのアイドル年代記の主題ではないので割愛しますが(興味が湧いたら調べてください)、AKB48の絶頂期を加速させた理由に握手会商法と総選挙という「システム」があったことは間違いないありません。
そんなAKB48の人気と握手会商法というシステムが世間一般に認知されていく中で、ある時誰かがこんなことを思いつきました。
「これって俺でもできるんじゃね?」
アイドルのCDリリースとリリース記念のイベント(←主にCDショップなどで行われるミニライブ)に握手会がセットになる、このシステム自体はAKB48以前から存在していました(アイドル以外でも)。
なので業界の中では誰もが知ってるシステムだったはずですが、それがやりようによってはとんでもないポテンシャルを秘めていることが、社会の隅々まで知れ渡ることになりました。そしてまたある時誰かがこんなことを思いつきました。
「これって俺でもできるんじゃね?」
その通りこの握手会商法というシステムは非常に模倣しやすく、かつ非常に現金化がしやすい「手間暇をかけずにマネタイズができるシステム」でした。後にアイドルとファンの交流は握手からチェキ撮影に置き換えられますが、システムのシンプルさと模倣のしやすさは変わっていません。むしろ「チェキ」という実物が残ることで思い出としての価値は以前よりも高まったのかもしれません。
「これって俺でもできるんじゃね?」
それを感じ取った先見の明がある誰かはAKB48の握手会商法を知ってすぐに動き出したかもしれませんし、もしかしたら握手会のポテンシャルをいち早く見切っていた誰かがそれをAKB48の関係者に吹き込んだ可能性すらあります。いずれにしてもAKB48の握手会商法の超成功は、多くの人にとってアイドルシーンへの参入に強い関心を抱かせるきっかけとなりました。
これがアイドル戦国時代が始まる前のアイドルシーンで起きていた環境の変化と機運の盛り上がりです。
第1期:ライブアイドル革命元年「BiSの登場」(2011)
2010年以降のアイドルの歴史をまとめる「ひでっきーのアイドルクロニクル」。前回の第0期の解説ではアイドルシーン内での社会的変化と機運の高まりについて解説しましたが、ここからが本編「ライブアイドル革命」についてまとめていきます。
歴史上、革命と呼ばれる出来事の多くにはそれが起こるきっかけとなる事件が存在します。フランス革命における「バスチーユ監獄襲撃」とか、第一次世界大戦における「サラエボ事件」とか、日本史におけるアレとか(←世界史専攻だったのでよく知らない)。今回はライブアイドル革命を引き起こす出来事「BiSの中野heavy sick zeroワンマン(BiS中野ヘビーシック事件)」について解説します。
今回の歴史解説では、話を分かりやすくするために「2010年以降」という括りにはしていますが、今回の”事件”が起きたのは2011年4月24日。すなわちライブアイドル革命の起点も2011年4月24日となります。
そしてその日を遡ること約1ヶ月前の3月11日、当時日本にいた人にとって忘れることが難しい天災、東日本大震災が起こりました。後のコロナ禍とは別種でありながらそれと同等か上回るほどの機能停止状態に陥った日本国内は全国的な自粛ムードが支配し、音楽エンタメも予定されていたライブが次々取りやめになっていきました。
その自粛ムードもまだまだ尾を引いていた4月24日(日)、中野heavy sick zeroというライブハウスであるアイドルのワンマンライブが開催されます。それがBiSのワンマンライブ「God Save The BiS」です(セックス・ピストルズの「God Save The Queen」のパロディですね)。
この時期にイベントを開催すること自体、それ相応な判断が必要だったはずですが、それと同時にその当時はアイドルシーンだけでなく日本全体からエンタメが枯渇していました。そんな最中でのライブの開催だったことが、イベントを探し求め流浪の民と化していたアイドルファンにとっては砂漠の中のオアシスとなり、あちこちの界隈からアイドルファンが集結し、このワンマンの伝説化を担うことになります。そして、その人たちの多くがその後のBiSの活動とは切っても切り離せない存在である「研究員」となっていきます。
なんの奇縁か僕もその場に居合わせることになったのですが、その日ヘビーシックで見た出来事を軽くまとめようと思います。
まずライブ開始後の最初の曲が「すげー長いな」と思っていました。ワンマン開催を前にリリースされていたBiSの1stアルバム「Brand-new Society」の中の曲であることは分かっていたのですが、その頃はまだ曲と曲名がすぐにリンクするほどではなかったので「とにかく長い」と思っていたですが、途中で「あれ?これ同じ曲やってね?」と気がつきます。そう。これが後のBiSのお家芸?にもなっていく「nerve3連発」誕生の瞬間です。
同じ曲をなんの断りもなく連続して繰り返すライブを当時の僕は見たことがありませんでした。しかもそんな異常事態に一切疑う様子もなく熱狂し続けているファンの姿を目の前にして「なんだこれは!?」と岡本太郎級の驚愕を覚えました。
さらにライブ半ばの「パプリカ」という曲では男性ファンの2人がステージに上がって長時間ディープキスをし続けました。
この「パプリカ」という曲はMVの中でBiSメンバーの2人がディープキスをするシーンが元ネタとして存在するのですが、オマージュにしては度が過ぎている男性2人(しかもおじさん同士)のキスシーンを見続けなければいけない時間が延々と続きます。たぶん同じ時間BiSのメンバーたちも「パプリカ」を歌い踊っていたはず。なんならMVの再現としてメンバー同士のキスシーンもあったんじゃないかと思うのですが、2025年となった現在も脳裏に浮かぶのはおじさん2人のキスシーンのみです。
「見てはいけないものを見た。来てはいけない場所に来た。」
とその場にいることをただただ後悔していました。
そんな惨状ともいうべきBiSのワンマンもようやく終わりを迎えるのですが、アンコールの最終曲を前にリーダーのプー・ルイさんが次のように言い放ちました。
「私たち、1stアルバムリリースしたばかりで曲が少ないからもう一回同じ曲をやります!nerve!!」
そんな乱暴な曲振りを聞いたのも初めてでしたが、最後にやった「nerve」ではお客さんが次々にステージ上がり続け、もはやライブを見ているのかただの暴動を目の当たりにしてるのかが分からないほどの大混乱のまま終わることになります。
この後、僕は10年以上アイドルを追い続けることになるのですが、ここまでひどいライブにはいまだに遭遇していません。
そんな前代未聞なワンマンを終えたBiSはその後の活動でも前代未聞を繰り返すことになります。その事件の数々と詳細については今も多くの情報が残されているのでその紹介はここでは割愛しますが、この中野heavy sick zeroでのワンマンがBiSというアイドルの運命とアイデンティティを決定させたのは間違いありません。
そしてこの2011年の「BiSの登場」がそれまであったアイドルに対する固定観念を徹底的に破壊し、アイドルの可能性を無限に押し広げることになりました。
そしてアイドルシーンはこの先、本格的な革命期へとなだれ込んでいくことになります。
第2期:ヒト・モノ・カネの大流入「アイドル戦国時代期」(2012〜2017)
2010年以降のアイドルの歴史をまとめる「ひでっきーのアイドルクロニクル」。前回は2011年4月に起きた「BiS中野ヘビーシック事件」について解説しました。AKB48による握手会商法がきっかけとなり業界への参入障壁を下がり(第0期)、BiSの登場がそれまであったアイドルに対する固定観念と既成概念を徹底的に叩き壊したことで(第1期)、アイドルは芸能界が手掛ける専売ビジネスから「誰がやってもいい」「何をやってもいい」「しかも割とたやすく儲かる」ビジネスへと変貌を遂げました。
2011年にBiSが起こした事件をきっかけに、アイドルとそのシーンは全国規模での普及と大量の人材流入が始まります。それはアイドルシーンが今まで経験したことがない変革であるのと同時に、大手広告代理店やマスメディアが仕掛けるような上意下達的な広まりではなく、草の根から起こる民衆蜂起に近い地殻変動でした。
本稿のテーマでもある「ライブアイドル革命史」はここからが本番の第2期。今回は2012年以降に起きた「アイドル戦国時代」について解説していきます。
小中規模アイドルが全国へ普及した「ローカルアイドルブーム」
2012年以降のアイドルシーンに起きた象徴的な現象。それが「ローカルアイドルブーム」です。日本各地に小中規模のアイドルグループが乱立したムーブメントをそう呼称しているのですが、それらはAKB48を地方へ分派させたSKE48、NMB48、HKT48などのグループのことではありません。
そうした大規模アイドルのローカライズ戦略とは全く別の文脈で、地方を拠点に据えるタレント事務所やイベント会社、さらには中小都市の自治体や商業施設、商店街のような小規模な団体や組織までもがアイドルグループの発足、運営に携わるようになりました。
それらの団体や組織の多くは過去にアイドル運営の経験や実績を持たず、規模や地盤もAKB48他のグループには遠く及んでいないのですが、AKB48と握手会商法は日本の隅々にまで”アイドル運営の雛形”として認知され、地方の有志にとって“オラが街のAKB”を起ち上げるのに十分なモチベーションとなっていました。
そうして起ち上げられたアイドルグループは「ご当地アイドル」と呼ばれ、地域や地元の活性化に一役買うことになったのですが、その中の一部のグループは小規模ながらも(しかしながら地元にとっては唯一無二な存在となり得る)成功を収め、さらにその中の一部は地元を飛び越え全国でも活躍しメジャーデビューすら実現させます。
そうした”ドリーム”を見た別の地方の有志が新たなご当地アイドルを産み、その成功がまた…という連鎖がやがて全国規模となり「ローカルアイドルブーム」という言葉が生まれるにまで至りました。
2025年現在においても各地方で多くのアイドルグループが存在し、活動を続けていますが、その源流にはこの時代に全国規模に広まった「ローカルアイドルブーム」があったことは間違いありません。
アイドル運営の変革「音楽家たちのアイドルプロデュース」
ローカルアイドルが全国へ普及していくのと並行して、当時のアイドルシーンには他業種からの人材流入も相次ぎました。その分かりやすい例が音楽業界からの流入です。
”音楽業界からの流入”と書くと「アイドルだって音楽だろうが」という語弊を生みかねないのですが、アイドル楽曲は音楽業界の中でもいわゆるJ-POP、バンド、ヒップホップ、ジャズ、ダンスミュージックなどとは分け隔てられたニッチなジャンルと扱われている傾向があり、それらのジャンルとの”地続き”な状態には置かれていませんでした。(現在においてもその隔たりがなくなったとは言えません)
過去において著名な音楽家がアイドルの楽曲を手掛ける例はあるにはあるのですが、それは特例的かつ一時的な出来事だったことがほとんどでした。
そんな”断絶状態”にあったアイドルシーンへ音楽業界からの本格的な人材流入を招くきっかけとなったのが前回の解説にも登場したBiSです。BiSは破天荒なライブパフォーマンスやプロモーションで認知を広めた一方で、その楽曲と制作のアプローチでも注目されたグループでもありました。
そのサウンドプロデュースを担った松隈ケンタ氏は元々福岡でBuzz72+というバンドを率いていた生粋のバンドマンです。その松隈氏が、後のBiSやBiSHのプロデューサーを務める渡辺淳之介氏との出会ったことをきっかけに、BiSのサウンドプロデュースやアイドルへの楽曲提供を手がけていくことになります。
BiSの発足当時、渡辺氏と松隈氏はアイドルに関する知見を全く持っておらず、しかも半ば事故的にBiSを手掛けることになりました。そんな”アイドル弱者”な両プロデューサーが作り出すBiSの楽曲制作は、それまでのアイドル楽曲の文脈やお作法には微塵も阿らない純バンド的、純アーティスト的なアプローチが採られました(というかそれ以外のやり方を持っていなかった)。その結果として産み出された楽曲はアイドルファン以外からも高い評価を受け、アイドル楽曲に対する先入観を打ち壊し、新鮮な衝撃と熱狂を伴ってバンドシーン、音楽シーンへも伝播していくことになりました。
やがてそんなBiSが起こした現象や状況を好機と捉えた音楽業界の才能たちが次々にアイドルシーンへと参入、自らの音楽的素養をアイドル楽曲の中で発揮していくトレンドが生まれました。それは現在においてもアイドルシーンを形成する一要素となっていますが、その起点はこの「アイドル戦国時代」の誕生期に遡ることになります。
アイドルシーンへ続々流入する「ヒト・モノ・カネ」
2012年以降に起きたアイドルシーンへの人材流入の例は音楽業界だけにとどまらす、モデル業界、オタク業界、舞台業界、ファッション業界、映像業界、デザイン業界、広告業界など音楽エンターテイメントとの親和性が高い業界との間での中で数々起きていました。それまでアイドルの「ア」の字も語らなかったような人がある時突然アイドルの仕事をし始める、仕事に留まらずアイドルの運営として参画する…といったことが珍しくなかったのがこの頃。
いわゆる「ヒト・モノ・カネ」の流入が同時多発的に起きていた時期なのですが、一方でそれは挫折を経験したクリエイターたちのセカンドチャレンジとしての場、社会的に実力を認知される前の若きクリエイターたちがクリエイティビティを発揮する場としても機能する側面も持っており、そうしたある種の実験的なアプローチが繰り返されたことが、アイドルの可能性を押し広げ、有能な人材を排出し、アイドルシーンのかつてない活況につながったことは間違いありません。
そんなアイドルとその周囲に集まる人材たちが、日々切磋琢磨し、群雄割拠した時代のことを「アイドル戦国時代」と呼んでいました。
当時のアイドルシーンをよく知る人の多くが「一番面白かった」と語るのがこの時代なのですが、どんな時代も栄枯盛衰はあるものでアイドル戦国時代はこの数年後に翳りを見せることになります。
【番外編】「地下アイドル」「ライブアイドル」ってなに?
ここまで「ライブアイドル革命史」の前半を解説してきましたが、アイドルシーンに詳しくない方たちにとって「そもそもライブアイドルって何よ?」という言葉のハードルがあるのではないかと思っています。
ライブアイドルはライブするアイドル。アイドルがライブをするのは当たり前だろーが!
という疑問を持つ人がいてもおかしくありません。
そこで今回は歴史の解説は一休みして本稿における重要ワード「ライブアイドル」という言葉についての解説回としたいと思います。前回までの解説、今後の解説の理解を助けるための基礎知識編としてお読みいただけたら幸いです。
尚、ここで解説する言葉の意味や定義は、あくまでこの「ライブアイドル革命史」の歴史観の中における定義(←この解説の中ではそういう意味で使っている)となりますので、厳密な意味や解釈の違いに関しては黙認できる方だけがお読みください。
「地下アイドル」とは
「ライブアイドル」という呼称が使われ始める少し前、インディペンデントな活動をしているアイドルのことは総じて「地下アイドル」という名前で呼ばれていました。
この呼称は今でも生き残っている言葉であり、実際のところ「地下アイドル」と「ライブアイドル」はほぼ同義の言葉と理解して差し支えありません。違いがあるとすればそれぞれの言葉が出来上がった時代とその文化的風土ではないかと思います。
まず「地下アイドル」という言葉ですが、こちらはアイドルシーンの中では以下の2つの意味に由来すると言われています。
(1)地上波(のテレビ)には出ることができないアイドル
一般的に「アイドル」はテレビの歌番組の中で歌い踊る姿を披露する存在として知られてきました。それらの歌番組を放送するテレビの多くは「地上波」と呼ばれており、そうした「”地上波のテレビ”には出ることができないアイドル」の喩えとして「地下アイドル」という呼ばれ方をしていました。
(2)地下にあるライブハウスで活動するアイドル
また”地上アイドル”のライブをする場所が、コンサートホールや競技場など地上の設備であることが多い一方で、”地上波には出られないアイドル”の多くが活動の拠点とするのは小規模なライブハウス(収容人数100〜300ほど)で、その多くは地下にあります。
デビュー間もないアイドル、活動規模が小さいアイドルはそうした地下のライブハウスで活動することが多いため「地下で活動するアイドル」というところから「地下アイドル」と呼ばれていました。
アイドルファンの自虐性との相性の良さ
「地下アイドル」という言葉の由来は概ねこの二つの説が混在したもの、というのが通説ですが、知名度や活動規模を表現する意味でも「地上」と「地下」という分類はとても分かりやすい表現だったのですが、それが定着した理由にはアイドル文化ひいてはオタク文化特有の風土も反映されています。
アイドル文化は有史からこれまで、「マニア」や「オタク」と呼ばれるこだわりと偏りが激しい偏屈な人たちの情熱によって支えられてきました。そしてそれらの文化は大っぴらにすることも憚られる”日陰な文化”として育まれ、そんな日の当たらない趣味を持つマニアやオタクの多くは、アイドルを愛でる一方で自らの趣味の”日陰さ”を慈しむ気質も持ち合わせていました。
時としてその気質は自らを卑下したり自虐する卑屈な姿勢や態度として表れ、固有の文化を形成していくことになるのですが、そんな彼らにとって自らが応援するアイドルを「地下」と称することは決して不自然なことではありませんでした。
しかも、そこには少なからず自分が好きなものに対する誇りや自負も含まれており、ファンだけでなくアイドル自らも自身の事を「地下アイドル」と称することも少なくありません。「地下アイドル」という呼称は誰が言い出したか分かりませんが、違和感なくアイドルシーンの中に受け入れられていきました。
「ライブアイドル」とは
そんな「地下アイドル」の活動はそのほとんどが日の目を見ることはなかったのですが、2011年以降のライブアイドル革命が起きて以降は状況が一変します。にわかに注目を集めた一部の地下アイドルは元来自分たちのフィールドであった「地下」には収まりきらない勢いと影響力を持ち始めます。
また、インターネット(とりわけSNS)の普及によって「地下アイドル」という言葉自体もそれまで決して届くはずのなかった人の目にも触れるようなり、「地下アイドル」という言葉が元来持っていた文化的背景とは別に、それを知らない人たちにとっての聞こえの悪さ、世間体の悪さも目立つようになってきました。するとその中に…
「こんなに頑張っている、こんなに素晴らしい活動をしているアイドルたちを”地下”と評するのはけしからん!」
という人たちが出はじめます。
個人的にはアイドル文化の中でこういう言説が現れる事自体が意外でもあり、ライブアイドル革命以降のアイドルシーンが大きく変化した証左だと思うのですが、この”けしからん勢”が「地下アイドル」に変わる新しい呼称を模索し始めました。その流れの中で生み出されたのが「ライブアイドル」です。
ライブアイドルは活動実態の明確化
この「ライブアイドル」という呼称が示しているのは何より「活動実態の明確化」です。
先に解説した”地上”のアイドルの活動内容と比較すると分かりやすいのですが、彼女たちが活動するフィールドは主に芸能界で、その内容は、マスメディア(番組)への出演、グラビア活動、CMや広告出演などの多岐にわたり、ライブなどの音楽活動は数ある活動の中の一部であることが一般的です。
一方、2010年代半ばまでの地下アイドルの活動はライブハウスでのライブ活動(+特典会と称される握手会やチェキ会)がほとんどで、活動の範囲はかなり限定されていました。
そんな活動実態に則した言葉として
「ライブを主戦として活動するアイドル=ライブアイドル」
という言葉が生まれました。
この言葉が定着するにはある程度の時間がかかりましたが、2025年現在ではアイドルシーンにおいて一般化しています。特に自虐文化の歴史を経験していない近年のアイドルファンや関係者の間では「ライブアイドル」の方が通りがよい印象すらあり、”時代とともに今まさに変化していっている言葉”でもあります。
まとめると…
ライブアイドル … 活動実態を表した言葉。2010年代半ば以降の言葉
となります。以降、本稿において「地下アイドル」「ライブアイドル」の言葉を使用した際は上記の意味を反映させた言葉として使っていきますのでご理解ください。
また、この2つの呼称をさらに進化発展させた「オルタナティブアイドル」という言葉も近年使われるようになっていますが、それはまた時代が先に進んでからの解説にしたいと思います。
第3期:アイドル戦国時代の「絶頂と終焉」(2017〜2019)
(2025/3/23追記更新)
2010年以降のアイドルの歴史をまとめる「ひでっきーのライブアイドル革命史」。前回は2012年以降に起きた「アイドル戦国時代期」の解説をしました。アイドルの全国化、シーンへのヒト・モノ・カネの大流入を受けてアイドルシーンは2010年代半ばに最盛期を迎えるのなるのですが、その数年後には早くも翳りを見せ始めます。
そこには新興ムーブメントであったが故の宿命が待ち受けていたのですが、今回はその栄枯盛衰な時代の変化を振り返ります。
アイドルイベントとフェスの拡充
前回、「アイドル戦国時代期のアイドルシーンはクリエイターたちにとっての実験場としても機能していた。」という解説をしました。
それまでのアイドルに対する常識にとらわれないそれらのアプローチは、ユニークな個性と音楽性を持ったアイドルを次々にシーンに送り出していったのですが、そんなアイドルたちの活躍の場となるライブイベントも急激に数を増やし、それまでバンドマンたちの主戦場だったライブハウスやパーティーなピーポーたちが集まるクラブで毎日のようにアイドルイベントが行われるのが珍しくなくなったこの頃のことでした。
その流れの中で、毎年夏には横浜赤レンガ倉庫で開催される「アイドル横丁夏祭り」、お台場の「TOKYO IDOL FESTIVAL」、横浜アリーナの「@JAM EXPO」といった大型フェスも開催されるようになり、この3つは特に”夏の三大アイドルフェス”と呼ばれるようになります。
その三大アイドルフェスの中でもTOKYO IDOL FESTIVAL(TIF)は、その開催規模もさることながら、全国各地のアイドルを網羅するという点で他の二つのフェスとは一線を画しており、開催3日間で出演アイドルは200組以上、来場者数は9万人弱を数える都心開催の音楽イベントとしては最大規模にまで発展。さらにはテレビで活躍する地上アイドルと地下やローカルなアイドルの競演が実現する唯一のイベントでもあり、日本最大のアイドルショーケースとしての役割も果たしていました。
「見つかる」ことができたアイドル戦国時代の絶頂期
そんなTIFと当時の盛り上がりを象徴する言葉に「見つかる」があります。
この時すでにアイドルが全国化していることは知られていましたが、それでも地方で活躍するアイドルの実力や人気が即座にシーン全体に知れ渡るという状況ではありませんでした。それは”まだ見ぬ逸材”たちが各地にまだまだ眠っていることを表しており、そんな未発掘なアイドルたちがたった一日の出演、たった一つのステージのパフォーマンスによって一躍全国区に名前が知れ渡る可能性がある場所。それが当時のTIFでした。
「今年のTIFは◯◯が見つかった」「◯◯のあのステージがすごかった」
そんなアイドルの活躍を語る逸話が日毎にSNSを賑わし、TIFでのブレイクをきっかけに知名度と活躍の場を広げていく…そんなシンデレラ・ストーリーが毎年のように起きていました。
意志と能力を持った人々がアイドルシーンに集まり、個性豊かなアイドルたちがライブで日々切磋琢磨を重ね、スターダムへ駆け上がるチャンスが存在し、その活況を見た人々がまた新規参入する…。そんな好循環が繰り返されていたこの時期こそがまさに「アイドル戦国時代」の絶頂期でした。
”一周目”を終えた停滞感と初期衝動からの目覚め
かくして「アイドル戦国時代」は大きな成功を果たすのですが、その成功の大きさこそがシーンが停滞する遠因にもなっていきます。
まず、アイドル戦国時代期にはシーンを象徴するアイドルを何組か輩出しましたが、そうしたグループも最初こそ唯一無二な存在だったものの、次第にそれらは”模倣可能な雛型”となり、“◯◯みたいなアイドル”の増殖が始まります。その結果、シーンから新陳代謝やバラエティが失われ、それまで盛んに試みられた斬新な打ち手が影を潜め、”どこかで見たことがあるやり方”が目立つようになってきました。
これは全ての流行やムーブメントで必ず起こる”一周した状況”がアイドルシーンにも訪れたことを意味していますが、シーンは拡大し、作品のクオリティやパフォーマンスのレベルも日に日に進歩しているにも関わらず、なぜか以前のように熱くなれない…。
当時漂っていたそんなジレンマが象徴していたのは、今にして思えば初期衝動からの目覚めだったのかもしれません。
メジャーデビューするアイドルに突きつけられた現実
さらに、この時期は活躍を遂げたライブアイドルたちのメジャーデビューが相次いだのですが、結果としてそれらの多くが大成功につながらなかったことも期待と夢を抱いていた当時のアイドルシーンに”現実の楔”を打ち込みました。
インディーで飛ぶ鳥を落とす勢いだったバンドがメジャーデビュー後に失速してしまう、という例は大昔からよく聞く話ですが、”新興”、”成り上がり”、”一周目”なライブアイドルと、音楽ビジネスを百戦錬磨してきたメジャーレーベル。両者の間にどれだけの”歩み寄り”があったとしても、互いが求める結果や価値観を埋めるのが簡単でなかったことは想像できます。
当事者ではない僕がその内情を語ることはできませんが、アイドルの運営とメジャーのレーベルが”うまくやれてない”と感じるケースが多かった(ように見えた)のは悲しい現実でした。
そんな様々な壁や限界が次々に表面化していく一方で、アイドルシーンそのものも成功の代償ともいうべき難局を迎えることになります。
シーンの一体感を失った「界隈の分断」
「アイドル戦国時代」を通じてアイドルがスタイルの多様化を育んできたことは繰り返し解説してきた通りです。具体的には、アイドル戦国時代の創成期はロックなスタイルのアイドルに注目と勢いが集まっていましたが、2010年代後期になって頭角を表し始めたのが現在のアイドルシーンの大本流となっている「キラキラ系アイドル」です。
水と油のような性質を持つ両者ではあるものの、その初期には同じイベントに名前を連ねることも珍しくなかったのですが、ロックなアイドルが音楽業界にその出自を持っていた一方で、キラキラ系アイドルはスカウトやモデル業界を源流に持っていたこともあり、それぞれのスタイルやファンの趣向の違いが次第に明確になるにつれて出演するイベントやライブを違えるようになってきました。
こうした方向性や趣向の違いから起きる人的な偏りを「界隈」と呼びますが、アイドル戦国時代の終盤にはこうした”界隈の分断”があちこちで起こるようになりました。
界隈が分断した結果、アイドルシーンとマーケットは細分化され、それぞれの界隈が”自分たちの成功”を追い求め始めたあたりから、シーン全体の一枚岩感そしてそれを覆っていたカオスな熱量は失われていきました。
「あんな時代はもう来ない」
当時を経験した多くの人が郷愁とともに語る言葉ですが、アイドル戦国時代はこのようにして終焉を迎えることになりました。
そして、そんな傾きかけたライブアイドルシーンに追い打ちをかけるさらなる逆境。次回は”コロナ禍”の中のアイドルシーンを振り返ります。
「第4期:コロナ禍期「残酷すぎるサバイバル」(2020〜2022)」に続く。